感性を磨く教育―「共育」へ


21世紀に日本が最も考えなければならないのは教育だと思います。大人も子供も価値観の転換、見なおしをするという上で、教育のあり方を変える必要があります。全国各地ですでに取り組みは始まっていますが、まだ日本全体を巻き込んだ取り組みとはなっていません。


身近な学校教育を例に取り上げたいと思います。現在の学校教育は、戦後の日本経済を支える上では非常に有効でした。読み・書き・そろばんというベースと、集団を尊重し個を慎むという方針は、そのまま日本の経済社会へ取りこまれていきました。その是非は別にして、今の教育のあり方はその延長上にあると言えます。


しかし、21世紀にはいり、経済至上主義は行き詰まりを見せています。また環境問題という思わぬ副産物が、生存さえも脅かすほど大きくなってきました。このままではいけない、という総論においてはほとんどの人が賛成していますが、ではどう打開するのかという各論においては開きがあり、結局なにも進まないという結果になっています。なによりも困難をぶち破る勢いに欠けているように思われます。これが教育の「成果」だとすれば、私たちはこのようなことを本当に望んでいたのでしょうか?


教師はいま悲鳴を上げています。これは教師の力量の問題ではありません。社会が子供を育てることができなくなり、親が子供を育てる余裕をなくし、子供が自ら育つための自然が減り、そのしわ寄せがすべて学校へいっているためです。教師が教室で黒板に向かって教えられることは非常に限られています。私自身のことを思い返しても、石を投げてガラスを割り、近所のおじさんに殴られたこと、父親とキャッチボールをしたこと、放課後図工の先生に絵を教わったことなど、学校以外で学ぶことのほうが多かったような気がします。それらの機会が減っているということは、子供達の財産を奪っていることですから、非常に胸が痛みます。子供の学ぶ環境を制限してまで経済に走っている大人としての責任を感じます。


私は以前、塾で数学を教えていました。三平方の定理、関数と図形、因数分解などなど、生活ではあまり使わないが入試に大切であることがあります。自信を喪失し、なかばノイローゼ状態になるほどおいこまれている子供もいます。教えながら『こんな勉強しなくていいんだ、本当はもっともっと大切なことがあるんだ』と喉まででている言葉を飲みこむのはつらい。ときどきは旅の話や植物の話もしますが、しかしあまり多くの時間を割くと立場上の問題が出てきます。金のため、生きるため、立場上、といって『大人の論理』で子供に接するわけですから、子供達にとってはいい迷惑かもしれません。


子供達は非常に敏感な感性を持っている時期に、勝ち負けのテクニックや、無意味な暗記や計算に膨大な時間を対やしています。そして学校が終われば塾へ行ったり、家でテレビゲームをして遊んだりします。現代の子供達が昔とくらべて決定的に違うのは、人がつくったものの中だけで生活しているということです。


昔は、学校が終わると田んぼでザリガニを釣ったり、地蜘蛛をつかまえてケンカさせたりして遊びました。肥だめがくさくて鼻をつまんだり、台風で道路が水浸しになったり、人の力だけではどうにもならないことがたくさんあって、人間というのはそういうなかで生きているんだなあと直感的に学んでいたのです。


自然のもつ、計り知れない力を目の当たりにしたときの驚き、感動が『感性』となり、それが積み重なって物事をしっかりと捉える力になるのだと思います。


数千年を生きる巨樹の根元に立ったとき、全身に鳥肌が立って感動している自分に驚くことがあります。森の中で何日もテントを張っていると、鳥や木の思っていることが通じることがあります。これは理屈でも科学でもなくて、ただ私の本能が自然と触れ合って『感じている』のだと思います。その『感じる』ということが、一番素晴らしいのであって、ひととしてそれ以上大切なことはないとさえ思うのです。そして自然に接している時に『感じる』ことは、人間社会で通用していることとはずれていたり、理屈とはまったくかけ離れていたりすることがあるのです。


わたしたちは、わたしたちが勝手に作り上げた思いこみにとらわれて生きていることが多々あります。例えばほんの少し前まで、経済は右肩上がりの曲線を永久に続けるものだと思っていました。例えば、モノの豊かさが真の豊かさであると多くの人が思っています。それら、もしかしたら間違っているかもしれない思い込みに対し、いいか悪いか見極める力、それが感性であり、知恵であるといえます。


今の日本のこどもたちはその『感性』や『知恵』を磨く場が、極端に少ないのです。感性にとぼしい子供が大人になって、きちんとした判断力がもてないのは、わたしたちが子供の能力を閉じ込めた結果として当然なのです。


これからの教育は、『感じる』ことをベースにしなければなりません。感動し、感性を磨く体験を積むには、命、本物に触れることが大切です。本物に触れたときの感動が好奇心へとつながり、自然と学習へと発展していくのです。そのときの学習は、いまある科目では収まりきれないかもしれませんが、結果的にはすべてを含むことになるでしょう。子供の好奇心の受け皿になるような教育体制をつくることができれば、子供達はいくらでも伸びるでしょう。


全国に点在する巨樹とそこに集まる動・植物を、四季を通じて観察するというのは手軽な例ですし、林業、農業、漁業体験も長期的に行うことで、子供達の感性を育むでしょう。野外教育学という分野ももっと発展するべきです。


これまでの教育と大きく違い、時間もかかるし、成果もはっきりしないし、優劣もつけられません。その方針の変換は難しいかもしれませんが、そう思っているのは案外大人だけかも知れません。多くの子供はそういった変換を受け入れる準備がすでにできているような気がします。


また環境問題など、未来にわたって全人類に関わる問題は、出来るだけ多くの情報を提供し、大人と子供が対等に議論できるようにするべきです。それによって子供は自分の発言に責任を持ち、存在価値を自覚するでしょう。また利益に囚われがちな大人に比べて、未来のことまで公平に判断する力は子供のほうが優れています。そういう点においては、子供は『年の若い大人』として扱っていいと思います。


私は子供が好きです。だから子供にはのびのびと生きてほしいし、のびのび生きていけるような環境を作るお手伝いをしたいと思っています。教え育つ教育から、共に育つ「共育」へ。生意気ですが、私の教育観をお話させていただきました。


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