森の思想―その1 雑木林

私たちの文化は木の文化、森の文化といわれています。気候がとても豊かな日本は、森とともに生きてきた長い歴史があり、土と緑と水の物語を受け継ぐ「森の思想」があります。山村の暮らしは、いまでもその影響が色濃く残っています。

雑木林に支えられた日本の文化

たとえば「雑木林」です。雑木林は山村の暮らしに重要な役割を果たしていました。ガスが普及する60年代以降までは、雑木林は薪や炭などの燃料を提供してくれていました。また雑木林で集められた落ち葉は、肥料として田や畑にまきました。釜にたまった灰も畑にまきました。雑木林はエネルギーの「自給自足」を可能にするものでした。

雑木林は、生態系も安定しているので、植物や動物も多くいます。日本人の自然観も雑木林とともに発達しました。たとえば松は昔の絵などには必ずかかれていますが、松はやせた土地に根付く木で、雑木林の代表です。桜の花の咲くのを田植えの時期の目安にしたり、イチョウの葉の色で雪の降る時を知ったり、かまきりの卵の産む位置で雪の多さを予想したり。日本人の自然観は、雑木林の生き物たちとの係わり合いのなかで育まれてきました。

里山と奥山

雑木林は人の手が入ることによってできるもので、その点では原生林とは分けて考えます。現在、一部のひとは「原生林を守ることが大切である」といっています。とても重要な意見ですが、原生林は人が触らないことで守ることができるという点では、わたしたちは外からしか関わることができません。

日本では原生林のことを「奥山」と呼んでいました。「奥山」はひとが安易に足を踏み入れてはいけない場所、神の住む場所として、人が経済活動をする「里山」とはっきり区別していました。神社にいくと、社殿の裏手に「鎮守の杜」と呼ばれるうっそうとした森がよくあります。裏手の森は「奥山」をかたちづくったものであり、あの森全体が神であるというのが、神道の考え方です。

原生林(奥山)は神の住む場所であり、人はむやみに立ち入らない。そのかわり、雑木林という人が関わることのできるもりを作って、その恵みを受けて生活するというのが、昔の人たちの暮らしぶりでした。

遷移と極相

雑木林というのは、人が手を加えることによって森の成長を制限している状態をいいます。植物は、生まれたときから、それがたとえアスファルトの間の雑草でも、成熟した森を目指して成長します。森が育つにつれ、植物の種類が変わっていく過程を「遷移(せんい)」とよび、もうこれ以上にはならないという熟成した森のかたちを「極相(きょくそう)」といいます。

ですから、雑木林はそのまま放っておけば、いずれ(時間の尺度は人とは違いますが)原生林に帰っていくのです。ただ、ひとは畑をやったり煮炊きしたり、何かとエネルギーを必要とするのも事実ですから、森の恩恵を受けつつ、森の哲学を邪魔しないという雑木林の存在が必要だったのです。


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